請問誰有日語綜合教程第六冊第十課仮面思想的原文?可以提供一下嗎?謝謝

2021-04-10 04:55:30 字數 4966 閱讀 4713

1樓:匿名使用者

仮面の思想

ニューギニアの高地に住む人々は、ときに、無気味としか言えない様な不思議な扮裝(ふんそう)をする。まず石灰などを材料にして、體を真っ白に塗りたくる。もともろの**の色が黒いところに、真っ白な色を全身にわたって塗るのだから、その姿はまことに異様だ。

民族學者の話によると、こうして身體を白くするのは死者の霊を象徴するものだ、という。そんな話を聞くと、いよいよ気味が悪くなる。

時には、その上に更に仮面を被る。メラネシアの造形美術を見ていて気がつくのは、白と黒と赤土(あかつち)色の三色を基調にした大膽な色彩の配合なのだが、その三色で塗られた仮面を被るので。部族によっては更に蓑のようなものを身體に纏う(まとう)。

寫真を通じてみているだけだからよく分らないけど、その格好は、少なくとも我々の基準からいうと、お化け、妖怪の類としか言いようが無い。

だが、たまたま、私はニューギニアの部族社會のこうした民族誌を勉強していて、こういう姿に出會い、異様な感動に打たれただけのことであって、よく考えてみれば、世界のもろもろの文化には、ほとんど一つの例外もなく、仮面というものが存在しているようなのである。インかやアステカの遺蹟の中にも異様な仮面があったし、また、キャプテン・クックが初めて発見したときのハワイの王族は、大きなひょうたんのごとき瓜(うり)を中空にし、そこに目玉を空けて頭から被っていた。銅版畫(どうばんが)で殘っているこの奇怪(きかい)な仮面は、これまたしげしげと眺めてみると、あまり愉快なものとは言えない。

もっとも、美しいか奇怪であるか、或は愉快であるか不愉快であるかといったようなことは、もっぱらそれぞれの文化の価値基準に基くものであって、一概に(いちがいに)動向と判斷できるものではない。我々の日本文化の中にも、おかめ、ひょっとこ、天狗といった一連の仮面があり、それらは概して言うなら、滑稽さを感じさせるものだけれども、他の文化の中で育った人が見れば、これらの仮面もグロテスクで無気味に見えるかも知れぬ。こうしたことは、ことごとく相対的な問題なのである。

とはいえ、私は、ここで仮面の美醜を論じようとしているのではない。私が力點を置いて考えようとしているのは、人類文化における仮面の普遍性(ふへんせい)なのである。古今東西を問わず人間のいるところ仮面というものは必ず存在している。

仮面の無い文化は一つもなく、更に言うなら、仮面という高度の象徴物の発明は、ひょっとすると、人類を他の動物から分かつ(わかつ)重大な指標の一つなのではないか、とも思われるのである。

実際、文明史を振り返ってみるなら、さまざまな異形の仮面は古代、いや、それ以前から作られていたようである。少なくとも、今日の地球の上でなおかすかに殘っている石器時代(せっきじだい)の生活をしている人々の姿が、我々のかつての祖先の姿と似ているとするならば、人類と仮面との付き合いは十萬年以上も続いているはずなのだ。それは、ハーバート・リードなども言うように、人類史におけるもっとも古い象徴的造形としてとらえることができるのかもしれない。

いわゆる古代文明の成立するはるか以前から、人間は仮面というものを発明し、それをかぶり、そこになんらかのーーというよりは極めて重大なーーー意味を求めていたのである。いったい、なぜ、人は仮面などという奇想(きそう)天外なものを作り、かつ、かぶるのか。

一般的に言って、仮面というものは多かれ少なかれ宗教的な起源を持っているようである。例えば、お神楽(かぐら)のようなものを考えてみよう。お神楽というのは、その言葉からも分るように、神を喜ばせるための音楽であり、舞である。

そこで音楽を奏で、舞う人たちは、人間であって同時に神の世界に近づいた人たちである。その人たちは人間のままの姿であってはいけない。少なくとも、ふだんの姿ではいけない。

神と近づき、或は神の意志によって動くこれらの人たちは、それにふさわしく自分を変えなければならないのである。

そのためには、その人自身の姿を視覚的に変える必要がある。その変身の手段として、仮面はいちばん手っ取り早い方法だったのであろう。時には奇怪で、時には滑稽なこれらの仮面は、人間の日常の世界を超越(ちょうえつ)し、或は日常の世界から逸脫(いつだつ)した面相をしている。

それは人間世界にそもそも屬していてはいけないものなのである。もちろん、ルドフスキーの言うように、人間の想像力には限界というものがあり、神という超越者を描こうとした芸術家たちは、神を視覚化するにあたって、結局のところ人間化するという以外に知恵のはたらくことがなかった。だからその結果、神を象り(かたどり)精霊を象徴させたさまざまな仮面には、例えば、目鼻があり、口があり、耳があり、そして、頭髪(とうはつ)がある。

神は人間と異なった存在であるはずで、従って神像(しんぞう)というものは、人間離れしていることが論理的に言って當然であるのだけれども、どうしても人間らしさから離れることができず、その形は人間そっくりになってしまうのである。その意味では、怪力亂神(かいりきらんしん)の仮面も人間そのものに近づくという皮肉な現象がある。

だが、それにもかかわらず、仮面はまず一義的には宗教的な性質と機能を持っていた、とみて差し支えない。初めに見たニューギニアの仮面も、精霊や祖霊の象徴であったし、今日ではすっかり観光化してしまったものの、キリスト教國でのイースターのパレードなどもローマ以來の祭式の延長なのである。実際、テレビの主人公などを象った(かたどる)お面が主に社寺の縁日で売られているというのも、仮面と宗教の間の密接不可分な関系を物語っている、と言うべきであろう。

そして、言うまでもないことだが、そもそも演劇というものは、洋の東西を問わず、神にささげる仮面劇をその起源としている。大陸の伎楽(ぎがく)の伝統からした日本の宗教的な神事(しんじ)からしたものであった。仮面をつけた俳優たちは、ときには祖先の英雄的な物語を再現し、ときには神々の世界を形象化し、そのことによって、いわば彼岸(ひがん)と此岸(しがん)とを繋げることは必ずしも常の人ではなかった。

彼らの少なからぬ部分は、神事(しんじ)とかかわる特別な存在であり、ときにはシャーマン(巫女)であったり、聖職者(せいしょくしゃ)であったりした。

そのいい例が、日本の伝統演劇である歌舞伎の始祖というべき出雲阿國(いずもおくに)であろう。阿國の出自(しゅつじ)は必ずしもはっきりしないけれども、その職業が出雲神社に仕える巫女であったらしいことはほぼ確かである。彼女が巫女であることは、絵巻物(えまきもの)に出てくる阿國がその首から紐(ひも)で経筒(きょうづつ)をペンダントのごとくにぶら下げていることからも分る。

もとより、彼女の時代の巫女は零落した存在であって、彼女を聖職者という言葉で呼ぶのには少なからずためらいを感じさせられる。だが、演劇というものにつきまとう一種の異常さ、或は、この世のものとは思えないある種の雰囲気をかもし出す者は、彼女の存在そのものにつきまとう神祕性(しんぴせい)と宗教性だったのではないか。

仮面をつけることによって、その途端に人は神になったり、神に近づいたりする。少なくとも、人は日常の存在と違った存在の仕方を仮面によって獲得(かくとく)する。

演劇というものは、その意味では、聖なる世界に屬するものであり、我々人間の日常の世界とは全く次元の異なったところで行われる一つの祭式(さいしき)なのであった、と言ってもよい。まことに、仮面というものは、人を別世界に誘い(いざない)、そして、質の異なった時間を経験させる不思議な発明品なのである。その伝統は今日も変わらない。

ところで、この仮面というものをより広義に解釈するなら、それは、例えば扮裝(ふんそう)、化粧といった人體(じんたい)へのカモフラージュ全體を含むもの、と考えることもできるあろう。ふだんと異なった衣裝(いしょう)を身に纏うことによって、または、身體や顏に色をつけたり、或は人工的な裝飾(そうしょく)を施す(ほどこす)ことによって、人は全く異なる存在になりうるのである。

例えば、サングラスというものを取り上げてみよう。この小道具は、それだけで1人の人間の面相や表情を完全に変えてしまう。そのめがねをかけている人間は黒いレンズの陰に隠れて、全く見ることができない。

その人間の素顏(すがお)がどのようなものであろうと、サングラスをかけると、面相の見分けがつかなくなってしまうのである。サングラスや付け髭などというものは、変裝の道具としてあまりにも陳腐(ちんぷ)だが、ほんのちょっと顏を弄る(いじる)だけで、人間はすっかり変わる。だれがだれであるかわからなくなる。

昔のミュージカル「ファニー・フェイス」は、正しく人間が化粧や裝飾によってどう変わるかをその主題の一つとしていた。映畫では、オードリー・ヘップバーンがその主人公だったが、書店で働くなんの変哲もない、そしてどちらかといえば風変わり(ふうがわり)な顏をしているその主人公は、或る時、ファッション・デザインナーの目にとまる。デザイナーは、この主人公の髪型を変え、眉や脣に化粧品でメーキャップを施し(ほどこし)、優雅なドレスを著せる。

すると、さっきまでやぼとしかいいようのない容姿だった女性が、たぐいまれなるファッションモデルに生まれ変わってしまうのである。それは、これまで手をかえ品を替えて作られてきたシンデレラ伝說の一つであるにすぎず、物語の筋としては他愛ないけれども、化粧や裝身によって人がどう変わるかという問題を考えると、どういうわけか、「ファニーフェイス」を思い出してしまうのだ、

日本における化粧や裝身についても、その起源は宗教的なものに求められるのだが、しかし、現代の女性たち、時には男性たちにとって、化粧という行為は恐らく宗教的なものとはいっさいかかわりがなくなっているはずである。それは、美しく在りたいという願望の現われであり、その願望を満たすために、クリームだの口紅だのが用いられるということになる。化粧品によって、人はその素顏ではないもう一つの顏をつくろうと努力するのである。

そうした願望は、仮に変身願望と呼んで良いものであるのかもしれぬ。

そして、不思議なことに、裝身や化粧によって外面的に自らを変えることは、微妙な仕方で人間の內面をも変える。女性の化粧を笑う男だって、例えば、紺(こん)のスーツに身を固め、ネクタイをきっちりと締めたときの気分と、浴衣(ゆかた)がけで座敷にあぐらをかいているときの気分との間に、驚くべき相違があることを経験的に知っているはずである。いくら外面がかわっても內面が変わらないと言う人物がいるとすれば、それは、よほどの道徳的抑制によって精神が硬直している人間か、さもなければ、よほど鈍感な人間であろう。

ちょっとした彩り(いろどり)の違い、そして、ちょっとした顏の手入れーそのことによって、人の気分が変わり、精神が変わる。「別人のような」という表現が。こうした変化の感覚を表すのに最も適切であろう。

そして、そうした感覚は程度の差こそあれ、我々のすべてが共有し、かつ求めているものなのではないか。

是這個不

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